何度言っても、伝わらない
年に一度の方針発表で、社長が丁寧に説明します。部長会でも繰り返します。それでも半年後、現場で確認すると、まったく違う解釈で動いている——。会社の規模を問わず、経営者からいちばんよく聞く悩みがこれです。伝えた回数が足りないのではなく、伝わり方が途中で変わっているのです。
なぜ変わるのか。多くの場合、伝わるのは「結論」だけで、「そう判断した理由」が一緒に運ばれないからです。「値引きはするな」という結論だけが降りていくと、値引きしたほうが明らかに得な場面でも、現場は固まってしまいます。逆に「今期は数字を取れ」だけが伝わると、社長がいちばん避けたかった安売りが始まります。結論は伝わり、判断基準は伝わらない。これが、繰り返しても浸透しない構造です。
この構造に対して、日本の大企業が2025年から取り始めた手が「社長を模したAI」でした。突飛に聞こえますが、やっていることは単純です。社長が過去に何をどう判断してきたかをAIに読み込ませ、社員が「こういう場合、社長ならどう考えますか」と何度でも聞ける状態を作る。それだけです。まずは、実際に公表されている三社の事例を確認していきます。
大企業が「AI社長」を作り始めた
2025年から2026年にかけて、日本の大手企業で経営トップを模したAIの導入が相次ぎました。いずれも各社が公式に発表しているか、取材記事として報じられているものです。
三社に共通しているのは、AIに経営判断そのものをさせているわけではないという点です。決裁はしていません。社員や役員が、判断を固める前の段階で相談する相手として使われています。この位置づけを外すと話が別物になってしまうので、先に押さえておいてください。
三井住友FGの「AI-CEO」が狙ったもの
株式会社三井住友フィナンシャルグループと株式会社三井住友銀行は、2025年8月5日付のニュースリリースで、グループCEOの中島達氏を模した「AI-CEO」を開発し、三井住友銀行での展開を開始したと発表しました。
仕組みも公開されています。システムプロンプト(AIの振る舞いを決める指示文)とRAG(社内の資料を検索して答えに反映させる仕組み)を組み合わせ、OpenAI社のGPT-4oを使って開発したと書かれています。RAGに入れているデータは、中島氏の過去の発言、その背景にある考え方、そして周囲からの印象など。役職員が質問を投げると、これらを参照して「中島達らしい」回答が返ってくる、という設計です。AIアバターの形でも開発が進められています。
興味深いのは、リリースに書かれた目的の順番です。第一の目的は「グループCEOとの気軽な相談」という体験を通じて、従業員にAIの有用性を自然に感じてもらうことだとされています。つまり、AI活用を社内に広げるための入口として社長のAIを選んだわけです。そのうえで副次的な効果として、役職員に高い経営的視座を提供すること、グループの文化を浸透させること、お客様への提案や社内企画をブラッシュアップすることが挙げられています。
「暗黙知」という言葉が公式文書に出てくる
同じリリースでは、続く取り組みとして「AI上司」の開発にも触れられています。そこには、これまで銀行が培ってきた大量の暗黙知を活用する、という趣旨の説明があります。大企業がAIに載せようとしているのは、マニュアルではなく、書かれていない判断の勘所だということが、公式文書の言葉づかいからも読み取れます。社内の暗黙知を形にする方法はAIで社内の情報共有・ナレッジをまとめる方法でも扱っています。
キリンの「忖度しないAI役員」
キリンホールディングスは2025年7月から、経営戦略会議で使うAI役員「CoreMate(コアメイト)」を運用しています。最大の特徴は、一つのAIに一つの人格ではなく、12の異なる人格と専門分野を持たせている点です。リスク管理に慎重な人格、イノベーションに積極的な人格、長期的な視点を重視する人格——といった具合に、性格の違う役員が12人いるような設計になっています。
学習させたのは、過去10年分の取締役会やグループ経営戦略会議の議事録、社内の重要資料、そして市場の最新動向です。会議中、役員の手元のモニターに、AIからの問いがテキストで表示されます。報じられている例では、施策の財務以外の効果をどう測るのかといった論点が提示されたとされています。
ここで注目したいのは、AIに答えを出させていないことです。CoreMateが出すのは結論ではなく「問い」。人間の役員が言いにくいこと、あるいは気づいていない観点を、忖度なしに投げる役回りです。会議で誰も反対意見を言わない、社長の意向を先読みして議論が止まる——中小企業の役員会でも起きがちな現象への処方箋として、この使い方は示唆に富みます。
ドコモビジネス:幹部の9割が方針を理解
三社目のNTTドコモビジネスの事例は、中小企業にいちばん近い問題意識から始まっています。同社の小島克重社長は、会議で繰り返し同じメッセージを伝えているのに組織に浸透しない、という課題を抱えていました。社長ならではの判断の観点が、組織の階層を経るうちにそぎ落とされてしまう。冒頭で述べた構造そのものです。
そこで開発されたのが、社長を模したチャット型のAIでした。「この件にどう取り組むべきか」と社長に相談するように質問すると、過去の幹部会議での発言をふまえた回答が返ってきます。
幹部層70人に3か月間使ってもらった結果が公表されています。9割が「社長の考えや方針をより深く理解するのに役立った」と回答しました。業務の壁打ちやアイデア整理に使われ、回答の正確さや「社長らしいコメントだった」という評価も出ています。
一方で課題も率直に挙げられています。先週の会議の内容には追いつけないこと、社外の話題への回答が粗いこと。この二つは、中小企業が同じことをやるときにもそのまま起きます。特に前者は重要で、更新の仕組みを決めずに作ると、数か月後には古い方針を答え続ける機械になります。
60年前に指摘されていた「語れない知識」
ここまでの三社に共通する問題を、60年前に言い当てた人がいます。物理化学者から哲学に転じたマイケル・ポランニー(1891-1976)です。1966年の著書『暗黙知の次元』(The Tacit Dimension)で、彼は人は語れる以上のことを知っていると指摘しました。
ポランニーが挙げた例は身近です。人混みの中から知人の顔を見分けられるのに、どこをどう見て判断したかは説明できない。自転車に乗れるのに、乗り方を言葉だけで教えることはできない。こうした言葉にならないまま身についている知識を、彼は「暗黙知」と呼びました。
経営判断は、この暗黙知の塊です。社長が見積書を見て「この案件は受けるな」と即断するとき、本人の頭の中では一瞬の処理が起きています。過去に似た客で痛い目に遭った、この業界は支払いが遅い、うちの職人がこの仕様を嫌がる——複数の記憶が同時に働いています。しかし口から出るのは「受けるな」の三文字だけ。受け取った側は結論を暗記するしかなく、状況が少し変われば応用できません。
ポランニーの指摘が重いのは、暗黙知は本人が意地悪をして隠しているのではない、という点です。本人も気づいていないから語られない。だから「ちゃんと説明してください」と頼んでも出てきません。出すには、具体的な過去の一件を持ち出して、そのときなぜそう決めたかを一つずつ聞くしかないのです。大企業が過去の発言データや10年分の議事録を集めたのは、まさにこの作業を機械の力で一気にやったということです。
社長の頭の中を、二つに分ける
ただし、社長の判断のすべてが渡せるわけではありません。取りかかる前に、渡せるものと渡せないものを分けておきます。ここを混同すると、たいてい失敗します。
左側は、時間をかければ言葉にできるものです。この価格でよいと判断した理由、断るべき客の条件、複数の案件が重なったときの優先順位のつけ方、過去に何で失敗したか。どれも社長の頭の中にありますが、書き出せば他人にも読めます。AIに渡すのは、この左側だけです。
右側は、言葉にしても他人が同じようには実行できません。相手の表情を見て条件を変える判断、前例のない事態で「とりあえずこう動く」と決める勘、現場に立ったときの空気の読み方。そして最後に、結果に責任を負う覚悟です。AIは責任を取れないので、決裁だけは絶対に渡せません。
大企業のAI社長も、例外なく左側だけを扱っています。三井住友FGのAI-CEOは相談相手であって決裁者ではなく、キリンのCoreMateは問いを出すだけで議決権を持ちません。「経営判断をAIにさせる」のではなく「経営判断の材料を全員に配る」——この言い換えができるかどうかが、うまくいく会社とそうでない会社の分かれ目になります。
中小企業版・判断基準を渡す4ステップ
では、社員が数人から数十人の会社では何をすればよいのか。四つの手順にまとめます。特別なシステムは使いません。
第1歩:判断の記録を集める
過去半年分から、実際に判断した案件を10〜20件拾い出します。見積を出した案件、断った案件、値段を下げた案件、人を採るか迷った案件。会議のメモでも、送信済みメールでも、決裁の記録でもかまいません。大事なのは、きれいに整理された方針文書ではなく、生の一件であることです。方針文書はすでに抽象化されていて、判断基準がそぎ落とされたあとの姿だからです。
第2歩:一件ごとに「なぜ」を3行書く
ここが本体です。一件につき、状況・決めたこと・なぜそう決めたかを3行で書きます。コツは、「安かったから」で止めず、なぜその価格でよいと判断したかまで書くこと。「先方の担当者が信頼できたから」なら、何を見て信頼できると思ったのかまで書きます。1件5分、20件で100分。半日もかかりません。
第3歩:AIに設定として渡す
書いた文章をまとめて、AIへの指示文の中に貼り付けます。ChatGPTのプロジェクト機能やカスタム指示に入れてもよいですし、社内で共有するプロンプトの形でも十分です。大切なのは、社員が自由に質問できる状態にしておくこと。社長に聞きにくい質問ほど、ここで解決します。
第4歩:月に一度、足していく
作って終わりにすると、必ず古くなります。NTTドコモビジネスの事例でも、直近の会議に追いつけないことが課題に挙がっていました。月に一度、その月に下した判断を2〜3件追記する。これを決めておかないと、半年後には誰も使わなくなります。担当は社長本人がいちばん確実です。
そのまま使えるプロンプト
第3歩で使うプロンプトの型です。角かっこの部分を自社の内容に置き換えてください。判断の記録は3件から始めて、少しずつ足していけば十分です。
このプロンプトの肝は、最後の【判断がつかない点】です。AIに全部答えさせるのではなく、社長に確認すべき点を絞り込ませる設計にしてあります。社員は「これとこれだけ確認させてください」と聞けるようになり、社長は毎回ゼロから説明せずに済みます。指示文の書き方そのものに不安がある場合はAIへの指示(プロンプト)の基本の書き方から始めてください。
大がかりなシステムは要らない
三井住友FGはGPT-4oとRAGで構築し、キリンは10年分の議事録を読み込ませています。こう聞くと、うちには無理だと感じるかもしれません。ですが、必要なのはシステムではなく、判断の理由が書かれた文章のほうです。
文字数にすれば1万字程度、A4で5枚分の判断メモがあれば、AIは「社長ならこう考えるはず」という下書きを返せるようになります。20件の判断を3行ずつ書けば、それだけで数千字です。大企業が数千万円かけている部分は、データを集める工程であって、AIそのものではありません。
むしろ規模が小さいほど有利な点があります。大企業では、社長の発言データを集めること自体が一つのプロジェクトになります。議事録の権限を整理し、どこまで社内公開してよいかを法務と調整し——という工程が必要です。社員10人の会社なら、社長が週に30分書くだけで、1か月で形になります。決裁も要りません。自分で決めて、自分で書けば終わりです。
判断メモに顧客名や個人情報を入れない
判断の理由を残すことが目的なので、固有名詞は必要ありません。「A社」ではなく「従業員30人程度の製造業」、「山田さん」ではなく「先方の購買担当」で十分です。後から社員に共有することを前提に書くので、最初から実名を入れない習慣にしておきます。AIに入れてはいけない情報の線引きはAIに入力してはいけない情報一覧と安全な言い換え方にまとめました。
やってはいけない三つのこと
その1:AIの答えを決定として扱う。いちばん危ないのがこれです。「AIがこう言ったので、そう進めました」が通る会社になると、誰も責任を取らない意思決定が生まれます。社長AIは下調べであり、最終判断は人が行う——これを口頭ではなく文章で明言しておいてください。大企業の事例でも、AIは相談相手か問いの提示役に徹しています。
その2:社長本人が使わない。作った当人が触らないと、ずれた回答が放置されます。社員は最初の数回で「社長の言うことと違う」と気づき、静かに使うのをやめます。月に一度、社長自身が5つほど質問を投げて答え合わせをするだけで防げます。経営層が使わない道具は、現場でも使われません。この構造は社長がAIを使わない会社は変われないで詳しく扱いました。
その3:完成度を求めて始めない。「全部の判断を網羅してから」と考えると、永遠に始まりません。判断3件でも、社員が迷う場面のいくつかは覆えます。10件そろえてから公開するのではなく、3件で公開して毎月足すほうが、結果的に早く実用になります。
社員10人の会社ほど効く理由
この取り組みは、実は大企業より中小企業のほうが効果が出やすい面があります。理由が三つあります。
第一に、書いたものがそのまま全員に届くこと。階層が多い会社では、社長が書いた文章も部長が解釈し、課長が要約し、現場に届くころには別物になります。社員10人の会社では、社長が書いたものを全員が直接読めます。伝言ゲームが起きません。
第二に、社長がボトルネックになっている度合いが大きいこと。中小企業では、社長が出張中だと見積が止まり、休日に判断を仰ぐ電話がかかってきます。判断基準を渡しておけば、社員が一次判断まで進めておけるようになります。社長AIの本当の効果は、社長を再現することではなく、社長を待たなくてよい場面を増やすことにあります。
第三に、事業承継の下ごしらえになること。判断の理由を書き残す作業は、後継者に渡す資料そのものです。数字や取引先の一覧は引き継げても、なぜその価格なのか、なぜあの客とは取引しないのかは、いまのままだと誰にも渡りません。月に2〜3件書き足すだけで、5年後には150件を超える判断集ができます。AIのためというより、会社を残すための作業だと考えたほうが続きます。
なお、社内への広め方そのものに不安がある場合は、書いた判断基準をまず社内文書として配るだけでも効果があります。伝わる文章の整え方は社内通達・お知らせ文をAIでわかりやすく整える方法を参考にしてください。
今日から確認する5項目
自社の状態を、次の5点で点検してみてください。
- この半年で自分が下した判断を、10件書き出せるか
- その判断の理由を、結論ではなく根拠として説明できるか
- 「受けない仕事」の条件を、社員に伝えてあるか
- 社長が不在の日、社員はどこまで判断してよいか決まっているか
- 判断基準を書いたメモを、月に一度更新する担当が決まっているか
五つそろえる必要はありません。まずは一番目、この半年の判断を10件書き出すところから試してください。書き出してみると、自分でも理由を説明できない判断がいくつかあることに気づきます。それが、社員に伝わっていなかった部分です。
よくある質問(Q&A)
社長の考えをAIに任せると、社員が自分で考えなくなりませんか。
逆になることが多いと考えています。いまの状態では、社員は判断基準を知らないので、社長に聞くか、当てずっぽうで動くかの二択です。基準が見える形になると、社員は自分の案と基準を照らし合わせて考えられるようになります。むしろ考える材料が増えます。ただし、AIの答えをそのまま実行させると本当に考えなくなるので、答えを見たあと「自分ならどうするか」を言わせる一往復を入れてください。
社長が創業者で、判断の理由が本人にも説明できません。どうすればよいですか。
それが普通です。ポランニーが言うとおり、熟練した判断ほど言葉になっていません。抽象的に「私の経営哲学は」と考えると出てきませんが、「先月断ったあの案件、なぜ断りましたか」と一件ずつ聞かれると答えられます。社長一人で書こうとせず、社員が聞き手になって10件インタビューする形がおすすめです。1時間で終わりますし、聞いた社員自身の理解もその場で深まります。
無料のAIでもできますか。有料プランが必要でしょうか。
判断メモを毎回プロンプトに貼り付ける方式なら、無料の範囲でも試せます。ただし、文章量が増えると毎回貼るのが手間になるため、保存しておける機能(ChatGPTのプロジェクトやカスタム指示など)が使える有料プランのほうが続けやすいのは確かです。まずは判断3件・無料で1週間試し、社員が実際に使うと分かってから支払いを検討するのが安全な順番です。会社の情報を入れる以上、業務利用が認められたプランかどうかは事前に確認してください。
まとめ
- 三井住友FG・キリンHD・NTTドコモビジネスが作ったのは、社長の判断基準を何度でも参照できる形にしたもの。決裁はさせていない。
- 社長の頭の中は「書けば渡せる部分」と「本人にしか無い部分」に分かれる。AIに渡すのは前者だけ。
- 中小企業は判断メモ10件から始められる。狙いは社長の再現ではなく、社長を待たない場面を増やすこと。
大企業のニュースは、そのまま真似しようとすると規模の差に押しつぶされます。しかし今回の三社がやったことを一枚に剥がしていくと、残るのは「なぜそう決めたかを書き残し、いつでも読める場所に置く」という、ごく地味な作業でした。AIは、その文章を読んで質問に答えてくれる係にすぎません。文章がなければ、どれだけ高性能なAIを買っても何も出てきません。
ある金属加工の会社で、社長にこう聞いたことがあります。「この見積、なぜこの金額にしたんですか」。返ってきたのは「まあ、こんなもんでしょう」でした。粘って聞いていくと、実は三つの理由がありました。この客は納期変更が多いので余裕を見ていること、この材料は今後値上がりが見込まれること、そしてこの図面は自社の得意な形で工数が読めること。三つとも、社員は誰も知りませんでした。聞かれなかったから言わなかっただけで、隠していたわけではないのです。
大企業がAIに投資して手に入れようとしているのは、結局この「聞かれなかったから言わなかったこと」だと思います。そして、それを引き出す作業に本来お金は要りません。要るのは、一件ずつ聞いて書き留める時間だけです。人数の少ない会社は、その時間を確保しやすい立場にいます。今日、直近で断った案件を一件だけ、なぜ断ったか三行で書いてみてください。それが社長AIの一行目になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
── AutoAIPlatform編集部