言えないまま、コストだけが積み上がる
鋼材が上がった。灯油が上がった。最低賃金も上がってパートの時給を全員分引き上げた。それでも取引先に出している単価は三年前のまま——こういう会社は珍しくありません。「値上げをお願いします」の一行が書けないまま、また一つ期が終わる。
この記事は、その一行を書くための記事です。値上げの依頼は、根性ではなく文書の問題として扱ったほうが前に進みます。型がはっきりすれば、あとはAIに下書きさせて数字だけ入れ直せば済みます。
数字で見る「転嫁できていない」現実
中小企業庁が2026年6月26日に公表した「価格交渉促進月間(2026年3月)フォローアップ調査」では、価格転嫁率は54.2%。原材料費55.7%、労務費50.0%、エネルギー48.9%と、人件費の上昇分がいちばん転嫁しにくい構図です。帝国データバンクの2026年2月調査では42.1%でした。
二つの数字が違うのは、調査の設計が違うから
この二つは、どちらかが間違っているわけではありません。調査対象も質問の仕方も違います。大事なのは差ではなく、どちらの調査でも「上がったコストの半分前後しか価格に乗せられていない」という共通の結論のほうです。
もう一つ注目したいのは、中小企業庁の調査で「価格交渉が行われた」割合が90.7%に達していることです。場は広く持たれるようになったのに転嫁率は5割前後で止まっている。問題は「席に着けるか」から「席に着いたあと、何をどう示すか」へ移りました。
なぜ「値上げのお願い」は書けないのか
理由1・断られたときが怖い。他社に切り替えられるのではないか、長年の関係が壊れるのではないか。ただ、この不安が強い会社ほど、そもそも一度も申し出ていないことが多いのも事実です。
理由2・どれだけ上げてよいか分からない。この状態で書き始めると、文章が「諸般の事情により」から先に進みません。必要なのは値上げ幅の決断ではなくコストがいくら上がったかの集計です。仕入先の値上げ通知、燃料の請求書、時給の改定額——この三つを並べれば根拠は作れます。
理由3・文章の型を知らない。これがいちばん大きな障害です。型を知らない文書を、断られるかもしれない相手に向けて書く——筆が止まって当然です。言いにくいことの伝え方は「言いにくいこと」をAIに書かせる前にもどうぞ。
2026年1月、下請法は「取適法」に変わった
2026年1月1日、「下請代金支払遅延等防止法」が改正され「中小受託取引適正化法(取適法)」になりました。重要なのは二つ。受注側が価格の協議を求めているのに応じず、一方的に代金を決める行為が禁止されたこと。そして手形払いが禁止されたことです。
あわせて手元に置きたいのが、内閣官房と公正取引委員会の「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」です。受注する側にも「行動」が求められている点が見落とされがちです。黙っていることは「値上げの必要がない」という合図になります。
法律を武器のように書かない
依頼文に「取適法違反です」と書かないこと。最初の一通は交渉の申し入れであって、告発ではありません。法律の存在は、こちらが引かなくてよい理由として自分の側で持っておけば十分です。相手の担当者を追い詰めると、社内で味方になってくれるはずの人まで敵に回します。
同じ値上げでも、伝わり方はまったく違う
| 要素 | 通りにくい | 通りやすい |
|---|---|---|
| 根拠 | 諸般の事情により | 上昇率を数字で示す |
| 範囲 | 一律で値上げ | 対象を絞る |
| 自社の姿勢 | 触れない | 削減努力を先に書く |
| 時期 | 来月から | 余裕を持たせ、協議を願う |
左側は、丁寧ではあるものの受け取った担当者が社内で何も説明できない書き方です。「諸般の事情」では上司に持っていけません。断られたのではなく、判断できずに止まっているケースがかなりの割合を占めます。
右側は、担当者がそのまま稟議に貼り付けられる書き方です。特に効くのが自社の削減努力を先に書くこと。歩留まりの改善で何パーセント、と一行入れるだけで「努力したうえで、吸収しきれない分だけをお願いしている」という構造が伝わります。
AIで下書きする4ステップ
第1歩・材料を箇条書きに。対象、現在の単価、希望単価、コストの内訳と時期、自社の削減策、適用開始月。きれいな日本語は不要で「鋼材前年比18%↑仕入先通知2026年4月」で十分。この作業に30分かけるほうが、文章に3時間かけるより効果があります。
第2歩・3つの言い方を出させる。一案ではなく強め・標準・柔らかめの3案を一度に出させます。並べて読むと、自社にとっての「ちょうどよさ」がはっきりします。
第3歩・数字を人が入れ直す。AIが書いた数字は正しく見えても全部消し、自分の資料から入れ直します。上昇率、金額、日付、取引先名、商品名の五つは必ず原本と照合してください。
第4歩・声に出して読む。送ったあと、たいてい電話がかかってきます。そのとき自分の口で言えない表現は、文書にも書かない——これが判断基準です。
そのまま使えるプロンプト
第2歩で使う型です。取引先の実名は「A社」で十分です。
肝は条件2と条件3です。数字を作らせない指示を明示的に入れると、確認の手間が大きく減ります。条件3の「聞かれそうな質問」は、そのまま電話対応の練習材料になります(AIへの指示の基本)。
人が直す場所と、AIに書かせない場所
AIが返してきた文面は、そのまま送れる状態には決してなっていません。必ず直すのは4か所。①すべての数字と日付、②謝りすぎている部分、③関係性に合わない敬語(書き出しの2行は自分で書き直す)、④譲れる線と譲れない線。
逆に、AIに触らせない領域も三つ。取引先の実名や契約金額を入力すること、値上げ幅そのものを決めさせること(その数字には自社の原価も力関係も反映されていません)、法的な判断を求めること。判断は公正取引委員会や中小企業庁の相談窓口へ(入力してはいけない情報)。
送ったあと——電話・二通目・9月の逆算
数日以内に先方から連絡が来ます。典型的な質問は「なぜ今なのか」「他社さんは上げていないが」「もう少し下げられないか」の三つ。他社の事情は、自社の原価と関係ありません。その場で最終回答をしないこと。
一通目で通ることは、むしろ少数です。二通目は焼き直しにせず、断られた理由に合わせて変える場所を一つ決めます。予算の都合なら適用時期を次期に、上げ幅が大きいなら対象品目を絞る。断りの言葉は、次に何を渡せばよいかのヒントです。
時期の話も。中小企業庁は毎年3月と9月を「価格交渉促進月間」とし、月間後のアンケートをもとに状況の良くない発注者へ指導・助言が行われます。9月を狙うなら8月中に集計を終え、月末から9月初旬に送る。取引先が複数なら通りやすそうな先から一社試すのがおすすめです。
よくある質問(Q&A)
値上げを申し出たせいで、取引を切られることはありませんか。
可能性はゼロではありません。ただし2026年1月施行の取適法では、価格の協議に応じずに一方的に代金を決める行為が禁止されました。申し入れ自体は法律が想定している正当な行動です。備えとしては、主要取引先から始めずリスクの小さい先で一度試す方法があります。
コストがいくら上がったか、正確に計算できていません。それでも書けますか。
主要な項目だけで十分です。全項目を精密に積み上げようとすると着手前に力尽きます。原価に占める比率が高いものを3つだけ選び、上昇分を仕入先の通知や請求書から拾ってください。端数の正確さより、示した数字が資料と一致していることが重要です。
AIが作った文章だと相手に分かってしまいませんか。
書き出しの2行と、自社の事情を書いた部分を自分の言葉に直せば、まず分かりません。AIらしさが出るのは、どの会社にも当てはまる一般論の箇所です。そこを自社固有の事実に置き換えれば文章は自然になります。値上げの依頼文は、事実の分量が多いほど良い文書になります。
まとめ
- 価格転嫁率は54.2%(中小企業庁・2026年3月調査)と42.1%(帝国データバンク・2026年2月調査)。上昇分の半分前後を自社で抱えている。
- 2026年1月施行の取適法で、協議に応じない一方的な代金決定は禁止された。申し入れは正当な行動。
- AIに任せるのは文章の型と3案の出し分けまで。数字・日付・譲れる線は必ず人が決める。
価格転嫁の話は交渉術の話になりがちですが、交渉の場自体はすでに9割で持たれています。足りていないのは席に着いたときに差し出す一枚のほう。コストがいくら上がり、自社で何を削り、それでも足りない分がいくらなのか。この三つが書いてある紙を用意することは、誰にでもできます。
ある社長が、三年前に書きかけた値上げのお願い文を引き出しから出してきたことがあります。二段落目から白いまま。なぜ止まったのか聞くと、「何パーセントと書けばいいか分からなくなって」。その日は文章の話をやめ、仕入先からの値上げ通知を集めるところから始めました。集計が終わった翌週、文書は一時間で書き上がったそうです。
値上げのお願いは勇気の問題に見えて、実は準備の問題です。集計は自分にしかできませんが、型はAIが持っています。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
── AutoAIPlatform編集部